贅沢な食卓

以前にも一度、三日ばかり預かったのだが、その時にも克朗の手のかからなさには驚いた。
中西(旧姓)曰く、普段からこういう子供であるらしい。 むしろ俺の家にいる時の方がはしゃいでいるとすら言われた。 自宅ではもっと醒めた大人しい子供であると言うのだ。 こいつも普段と違う環境に気分が高揚しているのだろうか。だったらもっと粗相なになんなりするはずだと思うが。 その上ホームシックめいたことすら言わないのだ。 俺の家で暮らしはじめてもう一ヶ月になるというのに。
俺も小さい頃には「亮君はしっかりしているのね」なんて誉められていたクチだが、 もっと甘えたガキだったし出来ることも少なかった。 もしかしたら今の俺よりもしっかりしている。
いや、断言してもいいな。 情けない話だが、冬になってからというもの、俺は克朗に起こしてもらう日が続いている。

「何時に帰ってくる?」
助手席の克朗が、いつもよりも楽しそうな顔で俺を見上げる。
今日はよほど機嫌がいいらしい。行儀のいい克朗が、脚を振り子のようにぶらぶらと遊ばせている。 席替えで好きな女の子の隣にでもなったのだろうか。
「今日はちょっと遅いな」
しかし俺がそう言った途端、克朗はしおれるように頭を垂れてしょげた。
さっきまでの様に機嫌のいい克朗も珍しいが、こんな克朗はもっと珍しい。 喜怒哀楽の怒と哀が抜け落ちたような子供なのだ。
それだけに、罪悪感が募る。子供らしい一面が見れたと言う点で嬉しいことでもあるのだが。
「お仕事?」
「まあな」
本当は、デート。同僚の女の子に食事に誘われているのだ。
断ることは出来る。恋人でもなんでもないただの同僚の女の子だ。 しかし、だからこそ期待する。最近結構いい雰囲気だったし。これを逃す手は無いだろう、男として。
それにぶっちゃけ好みなのだ。誘われたときは、ゴール前で足元にぴたりと絶好のパスが転がってきたような気分だった。
過去に何度か残業だなんだでその日の内に帰宅できないことも多々あったのだが、克朗はとても"いい子"にしていた。 帰った頃にはすでに何もかもを普段どおりに終えて寝ているだけでなく、テーブルの上に俺のための夜食がのっている日さえあった。
「いつもみたいに、ちゃんと寝てられるよな?」
克朗は、頷かない。
「どうしたんだ、今日は」
これが普通なのだろうが、俺にとっては未曾有だ。 子供らしい克朗が可愛くもあるが、戸惑いも大きい。
「今日は特別なのに」
聞こえるか聞こえないかの小さな声で、克朗はポツリと呟いた。


家に一人きり。俺はあまり寂しいと思ったことは無いが、勿論、みんながみんなそうでないことも知っている。
けれども克朗は俺と同じタイプの子供だろうと思う。しっかりしているし。物怖じしないし。案外図太いし。
だから、大丈夫。
初めてのことじゃあないのだし。
「楽しくない?」
「楽しそうにみえねぇの?」
俯き気味にクスクスと笑った。この笑い方は、彼女のとても気に入っている部分のひとつだ。
「見えないよ。上の空だもん」
俺はグラスの中身を呷った。
気がつけば克朗のことばかり考えている。これじゃあデートの意味が無い。
「いや。なんで今日誘ってくれたんだろう。って思って」
さすがに、子供が気になって。とは言いにくい。
繕いにしては中々上手いコトがいえたんじゃないかと思う。 僅かだが彼女の頬が赤らんだのは、アルコールの所為だけではないはずだ。
否応無しに期待が高まる。
彼女の薄い唇が、ゆっくりと動く。
「だって、今日は誕生日でしょ?」
彼女は俯いて、髪を耳にかけながら恥ずかしそうに微笑んだ。
つくづく好みの顔だ。上品そうな所作も好感が持てる。
魅力的だ。非常に魅力的だ。
けれど俺は今、彼女のことを考える余裕がなかった。
ただ、彼女の言った言葉を、反芻していた。
だって、今日は誕生日―――
今日は俺の…
「今日って22日だっけ?」
「忘れてたの?」
そういえば、彼女以外の女性からもデートのお誘いがあった。
イベントでも金曜でもない半端な日なのに疑問に思わなかったことが、今となっては不思議である。
不自然じゃないか。何かあるはずなのだ、今日と言う日に。
皆が今日にこだわるのは。
今日は特別な…
「ゴメン、帰る」
いきなり席を立った俺に、彼女の顔色が変わった。
「え…、どうしたのいきなり」
なにか上手いこといえたはずだと後になって思った。 ただ気が急いて、それどころじゃなかった。
「家で待ってる奴がいるんだ」
それだけ言って、俺は足早に店を後にした。 呆然と俺を見る彼女の顔を視界の端に見て、まだ始まっても居なかったが、ああ終わったなとぼんやり思った。


扉を開けるといい匂いがした。
「おかえりなさい」
家の中で走ることなどあまり無い克朗が、どたばたという騒音を引き摺って駆け寄ってくる。
「ただいま」
息を切らしている俺を見て一瞬きょとんとしたが、すぐに嬉しそうな顔になった。
「早かったね。まだ温かいよ」
克朗は俺の手を引いて、早く来いと急かす。 慌てて靴を脱ぎ、引かれるままにダイニングへ向かう。 ダイニングに入ると、匂いはいっそう食欲をそそる濃度になった。
「お前が作ったのか?」
「うん。全部僕からのプレゼント」
食卓はとても鮮やかだった。
スープ。サラダ。パスタ。チキン。プディング。
得意げな克朗の頭を撫でてやる。 どんな美人と食べるどんな高級食事よりも贅沢だ。
「お誕生日おめでとう」
「ありがとな」
克朗は、くすぐったそうに笑った。

他の料理は文句なしに美味そうだったし、実際美味かったが、プディングだけは正直食べられるかどうか不安だった。
しかしそれは本当にただの杞憂に終わった。
「うまい・・・」
甘さに嫌味がなくて、すごくすんなり食べられる。
「ホントに大丈夫? アキラさん甘いもの苦手なんじゃない?」
そんなことを言ったことは無いはずだ。 本当に俺のことをよく見ているのだなと感心する。
「苦手だけど、これは美味い」
「よかった。これが一番不安だったんだ」
どうしてこいつは、こんなにいい子なんだろうか。 俺はこいつに何がしてやれるだろう。
「そうだ、もう一個プレゼントくれよ」
所詮一年だけの家族だ、本物の家族にはなれない。 けれど、家族のように気を許してもらえたら、と思った。 俺はそれくらいこの小さな同居人が可愛かった。
「なぁ、そんなにいい子じゃなくていいんだぜ?」
きょとん、と俺を見る。
「お前はもっと、わがまま言え」
叶えてやれることは叶えてやりたいって思った。

しかし、後から思えば、これは俺の人生最大の失言となった。

「本当に?」
「ん?」
俺を見る克朗の目には、懇願するような色が混じっていた。 小学生がするにはいささか艶っぽすぎるような、一途な瞳で俺を窺う。
「本当にいいの?」
なんだか、いままでと雰囲気がずいぶん違わないだろうか。 上機嫌や不機嫌どころじゃないくらいの、初めての顔。
「とりあえず言ってみ」
意を決したように、克朗は小さく息を吸い込んだ。
「僕のこと好きになって」
何事かと構えたが、なんだそんなことかと胸をなでおろした。 俺に好かれるかどうかが不安で、今まで遠慮していたのか。 そんなこと気にする必要無かったのにと、俺はいっそ微笑ましい気持ちですらあった。
しかし、俺の考えは徹底的に甘かったのだ。
「心配しなくても、十分好きだぜ」
「違うよ。そうじゃなくて…」
切なそうだが、酷く強い。思わず目をそらしたくなるような瞳で見つめられている。 それと同時に、逸らしたくてもも逸らせない瞳だ。
なんだか展開がおかしくなっていることに、俺はようやく気付いた。原因不明の汗が出てきそうな空気。
「僕ね、凄くヤキモチ妬いたんだよ。あきらさんのデートの相手に」
どうして知っているのか、なんて。 一昨日の彼女との電話を、目の前でしているのだ。克朗ならわかっても無理は無い。
「絶対断らせてやろうって。だって、とられたくない」
なんだ、なんなんだこの流れは。
これじゃあ、これじゃあまるで、
「少しでいいから、そういう風に見てよ」
ああ、頭がパンクしそうだ。
あんまりにも呆然としてしまって、俺は克朗からのキスを防ぐことが出来なかった。
歳の差パラレルを書きたくて、少数派の子渋沢で挑んでみた。

なんか、結果、渋三の片鱗が一切無くなった。