欠陥症

放課後の理科準備室で試しに顔を近づけてみれば、若い理科教諭はあっさりと俺に口付けた。

「てめぇ、どこに住んでんだ?」
唇を離してそう問えば、生命力を感じさせない眼をした男はあと一センチの距離まで近づいて、俺の目をまっすぐに見た。
「連れてってあげよっか?」
今度は俺から近づいて、舌を撫であう前戯じみたキスをした。 いや、実際それは前戯だった。



それが何ヶ月か前の話。








ふわりと意識が浮上してまず思ったのは、久しぶりに普通に眠れたなということ。 カーテンの向こう側はまだ暗いので、三時間も眠っては居ないのだろうけど。 然し眠りに落ちることが出来て、尚且つ悪夢で目が覚めなかっただけで多大な収穫だった。 ここ三ヶ月の中で一番良い眠りだ。
目の前の銀髪がもぞもぞ動いて、まだ寝てていいよとおざなりに言う。 もう一度眠りに落ちることはできないだろうなと思いながら、返事だけしておとなしくその腕に収まった。

セックスの後はこうやって眠れる事が多かった。 それでも十分な睡眠とまではいかないが、これ以上の睡眠はどうやったって取れなかった。


その日俺はそのまま銀八に引っ張られて学校に連れて行かれた。 朝から教室に居た俺を見て、こりゃあ一雨振るぜよと、坂本が能天気に言った。




「だいたいなんでまた男となんでぃ。別にコレってわけじゃねぇんだろ?」
沖田は揃えた指をぴんと反らし、人差し指側を口の端に沿えてしなを作った。 そのポーズが少し可愛らしくすらあるのが可笑しくて、俺は少し声をたてて笑った。

沖田とはたまに屋上で鉢合わせる。 屋上への扉には錠がかかっていて本来立ち入り禁止なのだが、俺や沖田やあと知る限りでは服部やどっかの不良教師は番号を知っていて、 そういう者にとってここはサボりに打って付けの場所だった。

「女はめんどくせぇよ。聞く?俺の苦労バナシ」
「笑えなさそうだから遠慮すらァ」
多分それが賢明だろう。俺はまた喉の奥を鳴らして笑った。


初めての女と寝たのは高校に上がる前のこと。 一つ年上の髪の長い女だった。
行為への興味だけを尋ねる口ぶりで俺を誘ったのに、数回逢って寝てを繰り返すうち
「高杉君てさ、私の事ほんとに好き?」
と拗ねたような口調で言い出したので、俺は即刻縁を切った。
何を言い出すのかこの女は、侮蔑にも似た気持ちで思った。 本当も何も、俺があの女を好きだなんて言った事は行為の最中でさえも一度たりと無かった。

どうやら人ってのは案外簡単に情が沸く生き物らしかった。 男も女も寝たらその気になる奴の方が多いんだろう。
けれど同性同士ならどうだ。相手がノンケであればあるほど割り切った都合のいい行為が望めるというものだ。
そしてそれこそが俺の求めるものであり、それ以外のものは何一つ不要だった。



「台風・・・」
空を見上げて、沖田がポツリと呟いた。 釣られるように見上げた空の色は青く青く澄んでいたが、雲が流れるのが目でわかるほど上空の風は強いようだった。
「来てんのか?」
「そんな事言ってた気がすらァ」
坂本の言った事が本当になるかもしれない。 その後久しぶりに出たHRで、明日は休校になるといいねと銀八が言っていた。







俺には幼馴染がいる。名を桂小太郎という。
物心ついた頃には手を引かれて共に遊んでいる記憶しかなくて、少しの間でも互いに知らない人間だった時期があるのが信じられないくらい。 それくらいずっと俺たちは幼馴染で、お隣さんで、あいつは保護者のように俺の世話を焼いて、俺の一番近くにいた。



俺は家に帰ったその足であいつの部屋に上がりこんでベッドを占領した。 そうやって容易にあいつの領域に侵入する事について、あいつは何も言わない。
ただ、
「また女のところか?」
と、お決まりの小言を溜息と共に漏らした。
昨日家に帰らなかったことを咎めているのだろう。 俺の部屋とこいつの部屋は塀の上で向かい合っていて、わざわざ玄関を通らずともベランダづたいに互いの部屋を行き来できる。 自然、互いの生活が把握できるのだ。
手首のボタンを外す仕草になんとなく目が行く。
優等生然としてきっちり制服を着込んでナントカ委員会とか勤め上げちゃってる癖に、 明らかに校則違反の長髪はいつも肩に垂れ下がっていた。
手を伸ばそうかと、少し思った。


「それとも、男のところか?」

あまりにもさらりと言うもんだから、俺はその言葉を聞き流しそうになった。
男のところ・・・男のところ?
ガバリ、と勢い良く跳ね起きてからしまったと思ってももう遅い。 あいつは「本当だったのか」と信じられないという口調で言った。

「節度を知れ、節度を」
「・・五月蝿ぇハゲ」
「噂になってるんだぞ」


「お前は誰のでも咥え込むって」


ゆるりとこちらを向いた顔には、蔑む様な表情。

ぐらり、と。
脳が揺れた。

「・・え、らそうに・・・・、何様だよ」

ふつふつと、悲しみに似た怒りがこみ上げる。
女は俺を縛ったし、男だって深く付き合いすぎれば俺を束縛したがった。 他に俺はどうすればよかったのか。どうすれば俺は俺の神経を抉り取る痛みから逃げられたのか。 眠れない夜から、吐き気から、あの夢から。

埋めてくれるわけでもないくせに。
俺を・・・

「てめェにゃ関係無ぇだろうが」

必要としてくれやしないくせに。


大きな溜息の音。 どうしようもないものを見放すときに吐き出されるのと同じ音が、あの口から漏れる。あの口から。

「向かいの部屋で幼馴染が男と寝ているなんて、気分のいいものじゃないだろう」
「あの部屋じゃしてねぇよ」
「どうだか」

された事も無いような冷たい目に、脳が細かく千切れた気がした。 俺は酷く動転して、思考がうまく働かなかった。
地面が緩んで、脳が廻る。 ぐるぐる、ぐらぐら、ああ、酷く安定しない。
男に組み敷かれている俺を知られたことや、そんな俺を軽蔑するようなその目や、 それでもそうしないと眠る事さえ出来ない俺のどうしようもなさで、俺はもうぐちゃぐちゃだった。
だってこいつは、俺の欲しいものを何もくれないのに。こいつにだったら、きっと、おれは・・・


ぷつりと、脳の奥で何かが爆ぜた。

急に、可笑しくも無いのに喉がくつくつと引き攣って、口から笑い声が漏れた。 そうしてるうちに、酷く愉快な気分になった。
誰かと寝なきゃ眠れないような自分だとか、それをよりによってこいつに咎められているこの状況だとかがもう可笑しかった。

この中途半端な距離が俺を苦しくさせるのだ。 拒絶されてしまえば、楽になれるかもしれない。


「やけに突っかかってくるじゃねぇか。ナニお前。欲求不満?」

揶揄するように、俺は笑った。 嫌悪に程近い感情であいつは更に顔をしかめた。
何か言おうとしたあいつの顔を、綺麗な長い髪を引っつかんで勢い良く引き寄せる。 開いたままの口と見開かれた目の前で、俺は出来る限り精一杯の性根の悪そうな笑みを作った。

なるようになればいい。崩れるなら崩れればいい。いっそ崩れてしまえ。この十何年間も、積み上げた関係も、俺自身も。

「なんなら、お前のも咥えてやろうか?」

どうせ、手に入りやしない。




パンッ、と乾いた音。
意図せず俺の顔は右を向いていて、後から後からじんじんと頬が痛みと熱さを訴えた。
宙で止まったあいつの右手を見て、あいつの平手が俺の頬を打ったのだなと他人事のように思った。

案外と短気なこの男を怒らせたことなど数え切れないほどある。 けれどそれはいつもヒステリックに叫ぶような類のものだ。
顎を掴んで無理矢理に合わせられた目は、向けられた事も無い冷たさと鋭利さをしていた。


「望みどおりにしてやろうか?」


静かな言葉に背筋がざわめく。自分の浅ましさが悲しいくらい可笑しかった。
俺は平手のお返しに、あいつの口に噛み付いた。

「出来るもんならやってみろよ」



睨み返す冷徹な目に、俺はみっともなく欲情していた。
3Zじゃなくてもいいんじゃないの?なんて
そんなロマンの無い事を言ってはいけないんだ
と、自分に言い聞かせつつ・・・

こういうパターンの話が大好きなんです