春を待つ
例年より早く炬燵を出した。
今年の冬が冷え込んでいるからか、このあたりは毎年これくらい寒いのかは定かではない。
馴染みの無い土地の山際の、使われなくなった一軒屋に移り住んで半年が過ぎた。
桂さんにはお世話になったのでと、主は無償でこの家を貸してくれた。
死んだ息子を唆した張本人だと恨むほうが自然だろうに。
感謝よりもまずその殊勝さを奇妙に思ってしまった。
この家の猫は炬燵をたいそう気に入った様子だった。
「おい、もう寝るぞ」
促されればなんでもすんなりと行うはずなのに、炬燵から出るときだけはなかなか自分から動こうとしない。
「炬燵で寝ると風邪を引くんだ。知ってるだろう?」
言葉が通じないのはわかっているから、腕も引っぱる。
けれども自分から立ち上がろうとする気配はやはりない。
「全く、世話の焼ける」
仕方なく、俺は猫を抱き上げて布団まで運んでやっていた。
布団に入れて何度か頭を撫でてやれば、猫はすぐに寝付く。
冬の静けさの中でも聞こえないほど、呼吸は穏やかだ。
寝息だけじゃない、この猫の何もかもは静かで気配が無い。
いっそ空ろなほどに。
ガンッ
という大きな音で目が覚めた。外はまだ暗い。
猫の頭を撫でながら、うとうとしてしまったらしい。
ガンガンッ
遠慮の無い大きな音だが、猫に起きる気配は無い。静かに眠っている。
その眠りを邪魔しないように、なるべくこっそりとした動作で、布団から出て羽織を着て部屋から出た。
こんな音で起きないのだからいらぬ気遣いのようにも思われるが、そんな事を言い出したらこの半年の生活は成り立たない。
この生活は、俺の自己満足から成り立っているようなものだった。
「さっさと開けろよ! 寒ぃだろうが!」
来客は扉を叩くだけでは飽き足らず、大きな声で不満を漏らした。
擦りガラスの向こうにぼんやり映る白い頭には、決して雪が積もっているわけではない。
「なんだ貴様、こんな時間に尋ねておいて」
「煩ぇ、俺は本能の男なんだよ。思い立ったとき以外吉日じゃねぇの」
扉を開ると、銀時は一目散に部屋に入っていった。
勝手知ったる他人の家にも程があるぞ、そこの白髪。
そもそも最後に会ったのはもう一年近く前なのに、挨拶一つ無い。
俺たちの前を去るときですら「俺も抜けるわ」としか言わなかった。そういう男なのだ。
「炬燵あんじゃん! あー、温ぃ」
遠慮を知らない男はかごの中のみかんを手にとって皮を剥き始めた。
「遠慮をしろなんぞと無理は言わん。せめて礼儀を守れ」
「無理言わねぇっつーんなら、とことん俺のする事は許せっつーの。中途半端なんだよてめぇは。曖昧なのはその頭にかぶってるモンだけにしとけよ、ヅラ」
「ヅラじゃない、地毛だ」
こちらの言う事など聞く気も無い様子で、銀時はみかんの房をいっぺんに二、三個まとめて口の中にほりこんだ。
筋を取ったり、薄皮をむいたりなんて面倒な事はしない。
みかん半個をまるまる口に入れる坂本よりは幾分マメだと言えるかもしれないが。
「あいつどーしてんの?」
「相変わらずだ」
「そりゃあなにより」
「いい事か? あれが?」
「お前はそう思ってんじゃねぇの?」
いつもと何も変わらないいい加減な口ぶりでそういう確信的な言葉を吐くのが、この男の性質の悪いところだ。
みかんしか見ていない男に向ける目が、自然と睨むようなものになるのが自分でもわかった。
「知った風な口を聞くな」
くちゃりくちゃりと銀時がみかんを租借する音さえ聞こえる。
「知ってるよ。俺たち一緒に育ってんだから」
「適当な事を言うな」
「ホント強情だなお前。そういうとこばっかおんなじだよな、お前ら」
銀時はチラリと、襖の方に目をやった。
その向こうの部屋で眠るあいつが見えているかのように。
はじめて来る家のはずなのに、あんな静かな気配を読み取れるはず無いのに。
「元気?」
「わかってたまるかそんなこと」
「アイツが? お前が?」
「どっちもだ」
銀時とはそのまま炬燵でぽつぽつと他愛の無い昔話や、数少ない昔の仲間の近況の話を少しした。
そして夜が開けると、あいつは帰った。
「そろそろ雪降りそう」
とだけ言って。
俺はなんとなく玄関の外までついて行き、振り返りもしない背中をずっと見ていた。
適当にのらりくらり風に飛ばされる綿毛のような男なのに、いつもまっすぐ歩く。
銀時だけじゃない。
坂本や、それこそあいつだって。
羨ましいくらいに歩き方に迷いが無かった。
灰色がかっている冬の景色は、しかし、濁っているような印象を与えないから不思議だ。
面倒くさそうなのにどこか胸を張っているような不思議な男の姿が見えなくなる頃、気付けば雪が舞っていた。
冬は、戦をするには燃費も効率も悪い。
だから自然と、冬には穏やかな思い出が多い。
雪国では南国よりも、自ら死ぬ人間が多いと言う。
身を寄せ合う理由には、淋しさも含まれているのだろう。
どうしてだか脳裏にあの猫の姿が浮かんで、家の中に入らなきゃいけない気がした。
結局、俺がその場から動いたのは、肩や頭に雪が積もった後だった。
寝室の襖を開けると、猫は起き上がって窓の外を眺めていた。
「起きたのか。珍しいな」
いつもなら目が覚めてもそのままの姿勢で横になっているのに。
「雪に、興味があるのか?」
後姿は、当然のようにこちらに何の反応も示さない。けれど
「晋助?」
覗き込んだ顔には、涙の痕があった。
戦争が下火になって、鬼兵隊も潰されて、最後の大きな戦いで敗走した少しあと、この男は今のようになった。
何も喋らない。何の反応も示さない。食事も排泄も睡眠も自分からしようとはしない。けれど促されれば何の問題も無く一人でこなせた。
こんな症状は、都合が良すぎた。完璧に、自分の殻に閉じ篭もるためのものだった。
だから人里はなれたところに住ませてやろうと思った。
いつまでこの症状が、この日々が続くのだろうと思いながら、世話を焼いて、この男の姿にやりきれなさを感じたりもした。
だから、そうだ、俺は彼を猫だと思うようにした。
そうだ、もう彼は、猫でなくなろうとしている。
何にも心を動かされないはずの猫が、雪を見て涙を流した。
抱き上げて炬燵まで運ぼうかどうしようか、俺は少し悩んだ。
まだ泣いているのなら、邪魔をしてはいけない。
俺はじっと、そう遠くない日に人間に戻るであろう猫の顔を見つめた。
息を潜めて、彼はまだ俺を認識していないとわかていながら、ひたすら、冬のように見つめた。
春ならいい。
この男の心が動き出して、また静かに、沈むように世界への憎しみに溺れる日々の始まりが、せめて春なら。
素晴○しい世界という漫画を読みました