愛し恋し
あれほど五月蝿かった蝉の声は、今はもう夏の虫だか秋の虫だかわからないほどに慎ましやかになっている。
ページをめくる音がやけに響くのはその所為だきっと。
暇だ暇だと散々喚いたのに、このハゲは「ちょっとだけ待ってくれ、今いい所なんだ」と、本から目を離しすらしなかった。
残りのページは半分以上。
(嘘付け)
何がちょっとだけだよ。いっつもそう言って全部読みきる癖に。
心の中で三度罵る。心の中でだけ。
俺は部屋の隅で、何度も読んだ特に面白くも何ともない本をめくった。
このところ本を読む間もないほどこの男が走り回っていたのを知っている。
「おんし、あの男にゃちっくとばあ健気なんじゃの」
いつか陸奥の野郎(女だけど)に言われた言葉が、不意に浮かんできて苦い気持ちになった。
もしもう一度言われてしまったら、今度は咄嗟に反論できないかもしれない。
俺が他の奴より少しだけこいつを贔屓するのは、こいつが他の誰よりも俺の事を甘やかすからだ。
こいつが悪いんだこいつが。
こいつの我侭なんて俺のに比べりゃあ至極可愛いもんだと思えば、不思議と苛立ちは止んでしまうのだ。
こういう滑稽な心の動きを、ロマンチストは恋だ愛だと言うのだろう。
馬鹿馬鹿しいと、また苦い気持ちになる。
けれど不思議な事にその苦味は胸中にとどまらずに、すぐにどこかへ消えた。その事がなんだか、なんだかとてもよくないことのように思えた。
足元が温かい気がして目を落とせば、部屋に夕日が差し込んでいた。
貴重な午後を面白くも無い本で潰してしまったらしい。
ぼんやりと蜂蜜色に光る障子を開けて、縁側から庭に降りた。
気の早い夜の虫が鳴いている。
もうすぐ秋が来るのだなと思った。
冷たい風が入らないように、障子はぴったりと閉めた。
故郷にいた頃、よく歌った歌がある。
旋律も詞ももはやおぼろげだ。
花は散るが春はまた来る、けれど人はどうだろうというような歌詞だったように思う。
幼い俺はなぜだかそんな歌が好きで、木登りをして葉と葉の間から空を眺めているときなんかは、いつもその歌を歌っていた気がする。
「年の近い子供たちと遊んでいても、いつの間にかふらりと姿を消すような子供で、よく夕暮れになるとおばさんが頼みに来るんだ」
ヅラの奴はよくこの事を周りに語って聞かせる。
その言葉どおり、カラスが鳴き出す頃に足元から聞こえる声はあの男のものだった。
「しんすけ」
「しんすけ、ご飯の時間だよ」
「もう、日が暮れるよ」
「しんすけ、もう帰らないといけないよ。夜に喰われてしまうよ」
降りるときに怪我をしてはいけないと、いつも手を差し出される。
それはたいてい家に着くまで離されない。
だから俺は右手が出されたなら右手、左手が出されたなら左手を差し出すようにしてみたのだが、
いつの間にか逆の手で掴まれたり、逆の手を掴まれたりして結局は一緒だった。
掴まれてしまえば振りほどけなかったのは、一度振りほどけば口に出すしかそれを取り戻す方法が無いと知っていたからだ。
そして言葉にするのを躊躇している間に、どんどんと距離ができていき、やがて取り消しのつかない遠さになることを知っていた。
離されるくらいなら、掴まれていた方がましだと思っていた。
短い草を踏みながら通るあぜ道は柔らかく湿っていた。
飛蝗や蛙や蛇やらを見つけてもいつものように追い回したりはしない。あいつに手を引かれている時、俺はそれを踏まないように通り過ぎるだけだった。
一度めぐらせればありありと溢れ出す。
あの時好きだった歌はもうはっきりとは思い出せないのに。そう思うと滑稽だった。
橙の空と蒼い雲だったのが、いつの間にか様変わりしていた。
もう太陽は塀の向こうで、もしかしたら山の向こうかもしれない。
空は朱から桃へ、桃から白んで青へと層を成しており、雲は底が燃えている。
もう夜は、つるべを落とすように暮れるだろう。
季節の早さに溜息が出かけた。
そしてこの先に待つものに思いを馳せかけたその時に、大きな音で思索は中断された。
すぐにはわからなかったが、それは木と木がぶつかり合う音で、背後で勢いよく障子の開けられた音だった。
振り向けば、ヅラは障子を開けた姿勢のままあからさまに安堵した表情をしていたが、俺の怪訝な顔に気付くと気まずそうなそれに変わった。
「なんだよ」
「いや・・・、そこに居たんなら別にいいんだ」
くるりと背を向けられ、再び障子は閉じられた。
俺が部屋から出たのにも気付かないほど本に熱中していたのは迂闊としか言い様が無いが、
気付いたら俺が居なくて、らしくも無く焦ったのだろう。
俺はなんだか、言いようの無い気持ちになった。
あいつが俺を特別過保護に、大切にするのがいけない。あいつが悪い。
俺を振り回す、あいつがいけない。
(俺も存外ロマンチストなのかもしれない)
俺は顔をしかめたけれど、苦味はすぐに通り過ぎた。
しかめっ面を続けていたけれど、俺の胸中は酷く穏やかだった。
それはあまりにも、すとんと俺の中に落ち着いので。
こんなに甘くするつもりは無かったのになぁ・・・