疾病忘却
目覚めた高杉は起こした体の軽やかさに驚いた。
このところ調子が良いとは思っていたが、今日のは別格だ。
ずっしりと重たかった頭はすっきりと晴れているし、右目は畳の目の細部までもを脳に伝え来る。
何より如実だったのは喉から肺にかけての内膜の感覚だった。
粘膜に覆われた内部は、きっとやすりようなんだろうと思うほどで、そのざらざらの一つ一つが痛いくらいの熱を持っていた。
咳とともに体内から吐き出される血は、その先端から流れ出ているんだろうと思った。とりわけ、喉の一番細い部分の内側はいつもずきずきと高杉を苛んだ。
このところは調子が良かったが、それでもずっと、高杉の内部はこれらの痛みを訴えていた。
訴えていたのに。
それがどうしたことだろう。
そこには少し冷たい空気を吸った後くらいの違和感しか無い。
高杉は決してそれを、歓喜や幸福と結びつける事が出来なかった。
病人は死ぬ直前にまるで回復したかのように体が軽くなるという。
この所の快調はもしかするとそれかもしれないと、高杉は驚くほど穏やか気持ちでそう思って過ごしていた。
違う。
高杉は口の中で呟いた。
これは違う、と。
病魔は目に見えぬところ姿を隠したのではなく、己の体から離れていっている。目の前の光るものが、霞んでいくような感覚。これは愛したものへの失望に似ている。
「なんで……」
知らず高杉は呟いていた。
高杉を蝕んでいたのは『亡国病』と呼ばれ恐れられる程の病だった。
清涼な空気の元で病状の悪化を遅らせる他の手立ては無い不治の病である。
治るはずの無い病なのだ。
それはつまり、死ぬほか無い病だというのに。
滑らかに障子が動くのを視界の端に捉えてはいたが、そちらに向く余裕は今の高杉には無かった。
几帳面にぴったりと障子を閉めた桂は、目の前の幼馴染の様子を見て眉間にしわを寄せる。
「どうした…、調子が悪いのか?」
傍らに腰を下ろし、俯いた高杉の顔を案ずるように覗き込む。
「なぁ、ヅラ」
「ヅラじゃない。桂だ」
「俺ァ死ぬんじゃねぇのか?」
桂には一つ、高杉に隠している事があった。
その秘密が、桂の喉を圧迫した。
「俺は、死なねぇのか?」
高杉が正面の虚空ではなく桂を見ていたなら、相手の顔色に悟るものがあっただろう。
けれどまだ、高杉は桂の真意を知らない。
「当たり前だ」
桂は努めて平淡に答え、朝飯を持ってくると言って部屋を後にした。
歓喜や嫌悪や悲感が桂の内部をぐるぐると絡み合いながら駆け回る。
その不快さに臓腑の奥の奥から何かが競りあがってくるようだった。
「わしゃあ抜けるぜよ」
坂本が桂の元へそう言いに来たのは、風の吹く肌寒い日だった。
するすると動かしていた筆を止め、桂はその両の目を見遣る。
「わしはわしの遣り方ば見つけたき」
その目がもはや戦場を見ていないのは明らかだった。
「今お前が抜ければどうなるかくらい、わからん頭じゃないだろう」
「戦が早ぅ終わるな」
「早く仲間が死ぬ、ということだ」
「けども新しく入ってくるはずだった者の分、死人は減るろー」
こんな言葉は、人一倍情に厚いはずの男が口にすべきものではない。
「大義のため、か?」
溜息混じりの桂の言葉に、坂本の表情がすっと翳った。
「坂本…?」
「……のう、ヅラよ」
「ヅラじゃない桂だ」
「おまんは高杉の病がどがんもんか知っちょうか」
桂は非常に冷静でその沈着たるや岩のようだと言われるほどであったが、
高杉に関する事だけはその性質が当てはまらなかった。
それが桂を山でなく岩と称させるのかもしれない。
岩が崖から転がり落ちるかのように、桂は瞬時に殺気立った。
「貴様、俺に何を言わせたい」
はじめは変な咳をするなと思う程度だったが、あれよあれよと言う間に高杉は弱った。
この頃には高杉が何の病であるかなんて明白だった。
後はもう進行を遅らせる他ない病だと。
滅多に浴びることの無い桂の殺気を正面から受けながらも、坂本は平静を崩さない。
「この国では勘違いされとるがの」
銀時のは空気を針にするような殺気、高杉のは胸の臓腑を掴まれる様な殺気であるが、
普段穏やかなこの男はまるで地を這って足元を揺らすかのような殺気を放つ。
坂本はそう思いながら、すうと息を吸い込んだ。
「あれは治る病気じゃ」
「え」とも「う」とも「あ」とも付かない短い声と共に、地鳴りが止んだ。
桂は理解できないものを見るような目つきをしていた。
「外では結核っちゅうてな、ちゃんした薬を飲みゃあ半年でなおるんじゃそうな」
あんまり衰弱しきってしもうたら、わからんがの。坂本は少し厳しい顔をした。
「もちろん大義のためでもある。けども、私情が全く無いとはよう言えんし、よう言わん」
桂は脳の働きが全て停止したかのような表情をしていた。
「あれは、病期で死なすんは忍びない男じゃき」
障子の向こうでいっそう強い風が吹いて、葉音が煩く鳴った。
桂は、その音が耳元で鳴っているように感じていた。
高杉が桂の元を離れてから幾つかの季節が過ぎた。
医者が完治したと言うまえに高杉は姿を消したが、おそらくあの病が彼の体を苛むことはもうないだろう。
「なあ」
坂本が戦線から離脱することを桂に告げたのと同じ部屋で、二人は急須と湯呑の乗った盆を挟んで向かい合っていた。
「なあ、坂本」
彼の病を治してよかったのだろうか。
桂はそう聞きたかった。
誰かの答えを聞きたかった。
けれどそれはできない。
その事は彼の望みでもあった。
「もしも高杉の奴があの病にかかっていなければ、どうなっていだたろうか」
高杉は突然の発作に膝を折った隙に左目を失っているし、
彼の愛した鬼兵隊が壊滅したのも彼が臥せっている時だった。
それは坂本も知るところである。
「おんしの考えは知らんがの
わしは病気があったけ片目ですんだんかもしれんとすら思うとる」
坂本はぐっと冷めた茶を飲み込んだ。
「体が良かったら、あいつはもっと無茶しちょったよ」
柔らかく翳った微笑みは、桂をとても落ち着かせた。
そうだなと小さく呟いて、桂は急須を持って立ち上がった。
「新しい茶を淹れてくる」
そう言って、ぴったりと障子を閉じて部屋を出た。
半ば狂気にまみれたように幕吏を狙う高杉を見て正直安堵したことを、桂は誰にも言わなかった。
悲しみにまみれようが、憎しみにもがこうが、彼が生きているならそれでいいと思っていることを、誰にも悟られないようにこっそりとしまいこんだ。
僅かな嫉妬には、己自身ですら気づかないふりをした。
そうしてまた、季節が巡る。
宇宙に結核を治す薬があったらこんなに早く死ななかったのになぁ。という願望。