よるのまぼろし
白と黒の絵の具があれば足りてしまいそうだ。
ある夜、床の上で気絶する姿を見てふと思ったのを覚えている。
肌も髪も驚くほど色味が無くて、内側が冷え切っているような造作だ。
辛うじて赤が透けているのは耳と唇と指の先、あと眼球の灰色の部分に細い線が何本か。
ただ、殴った後は腫れた目元と切れた口の端から血液の色が滲んで、それだけが酷く鮮やかに映る。
あいつの体内の赤色はいつも、俺の頭部をぐらりと歪ませるので、
俺はあいつの胸倉を持ち上げ額が付くくらいに顔を近づけて、鉄っぽい味の唾液を舌で絡めとった。
あいつと初めてキスをしたのは16の頃。
風に吹かれるみたいにして自然に合わさり、離れた。
後ろではざわざわと若葉が揺れていた。
その唇があんまりにもしっくりと俺に馴染んだものだから、一瞬の邂逅に不快や嫌悪を感じる暇なんてなくて、俺はまたその唇を追って、重ねた。
木の葉の隙間から射す光があいつの目蓋や髪の上できらきらと踊っていた。
むしろどうして今までキスをしなかったのだろうかと不思議に思うほど。
それほどに、あの男とのキスはとても自然なものだった。
セックスをしたのは俺が17になる前の日だった。
セックスと言っても、男女のそれで言うところの前戯しか行っていない。
俺のがあいつの中に入らなかったのだ。
だから互いのものを擦り付け合うだけの、今思えばとても拙い行為だったのだが、それだけでも頭と体が沸々と煮えるようだった。
体の芯がとにかく熱くて、その熱が俺の体を構成する三分の二である水分を沸騰させているような感覚。
もどかしくて仕方が無くて、煮えて揺れて震えた。
水分はどんどん気体になって放出されていって、現に俺の喉はからからに渇いていてたのだが、
何故なのだろう、むしろ体内からはどんどん何かが湧いてくる感覚のほうが強く感じられた。
この湧き上がるものは水分とはまったく違うのもの、例えば形が無くて目に見えないものなのだろうかと思った。
でなければ、胸の下あたりから際限なく溢れ続けたあれは一体何だったというのか。
しかし、今ではもう、その感覚さえ希薄だ。
その次にあいつに触れたのは三日後だったのだが、それは"俺にとって"の三日でしかなかった。
いや、
脳が否定の言葉を吐いた。
意識が無かっただけで、俺にとっても八年は八年だったんだろう。
そうだ、気絶するあの男の歯を舌でなぞっているときも、同じことを思った。
あいつの体は八年分のときを経た。
髪が伸び、頬の丸みが無くなり、筋肉がつき、声が低くなり、指の皮が厚くなり、左腕の切り口が肉よりも肌に近い色になり、
頭の中身がだだ漏れしているような喋り方ではなくなり、口を開いて躊躇うような仕草を見せるようになり、俺の傍にくるのに少し緊張するようになり、
俺に殴られてもあの頃みたいな剣幕でぎゃあぎゃあ騒がなくなり。数え上げれば本当にきりが無い。
どうしてこいつにキスなんかして、その上セックスなんかしちまってるんだろう。
あの頃はあんなに自然な行為だと感じていたのに。
「ゔお゙お゙い、眠れねぇのか?」
ベッドの端が沈んで、薄っすらと目を開けると銀色が映った。
八年前はしなかったような年上面で、おずおずと俺の額を撫でた。
わかっていても、少し身を任せてしまうのは、やはり少し疲れているからかもしれない。
「おい、マーモン」
そう呼ぶと、額を撫でる手がぴたりと止まった。
「悪趣味なことすんじゃねぇ」
「さすがボス」
幼い声が聞こえ、俺の目を覆っていた重みが消えた。
目を開けると、ベッドサイドの机にマーモンがちょこんと座っている。
「逃走できないようにしておけと、言っておいたはずなんだがな」
「安心して、本体は檻の中のままだから」
「術が使えりゃ意味ねぇよ」
「よく言う。あんな機械の中に放り込んでおいて。しかもボスじゃなきゃ開けられないなんて反則だよ」
「だから俺を操ろうって? 性質の悪いもんみせやがって」
俺がそう言うと、マーモンは「え」と短く驚いたような声を上げた。
「それ本当?」
「なにがだ」
「おかしいなぁ、何を見たんだいボス」
どうして俺に幻術を見せた張本人がそんなことを聞くんだ。
「僕はボスの中の一番眠りにつきやすい状況の記憶を引っ張り出したつもりなんだけど」
僕には見えないんだよね、失敗したのかな、そんなはずは・・・と、幼い声がぼそぼそ呟くのを、酷く落胆した気持ちで聞いた。
なんだ、俺は甘えていたのか。
一方的に、俺は甘えていたんだ。
ああ、なんだ。
なんだよ。
随分陳腐じゃねぇか、俺も。
「今度はちゃんとかけるからさ、目を瞑ってもらえる? 大将が寝不足の顔してたら、ちょっとだけど不安だからね」
必要ないだとか余計なことをするなだとか言うべき言葉はいっぱいあったはずなのに、
結局何も言わず、俺はゆっくりと目を閉じた。
「それじゃあボス、僕も寝るよ」
言葉尻が揺らいで、赤ん坊気配も融ける様にして消えた。
変わりにまた、ベッドの端が沈んで、額の上に暖かい感触が戻ってきた。
その温度はゆっくりと俺を撫でる。
「寝るまでここにいるぜぇ」
幻だとわかっているから、その手首を掴まなかった。
もし本物だったら、腕の中で丁寧に抱きしめたかもしれない。
大空戦前夜
ゆりかごテロ決行がボスの誕生日だったら切ないよぁ、とかそんな妄想