ゆめのあと
粘膜に絡みつくような、これは薬品の臭いだ。
つい最近もどこかで嗅いだ覚えがある。
目に映る景色は浮かんで揺れるように曖昧でぼやけている。
ただそこかしこの白さが目に飛び込んで、ついに死んじまったのかと思った。
ピントが合えばそこにはベージュの線で花のような模様が描かれた天井があり、
周りをぐるりと取り囲むように真っ白なカーテンが張られていて、
俺の腕には点滴が刺さっていた。
そうだ、ここは病院だ。
街医者と病院とじゃあ、臭いが全然違うのだなぁと、そういえばこの前も思った気がする。
街医者といっても、モグリなのだが。
この前は俺を覗き込む跳ね馬が目に入って、すぐに自分が病院のベッドに寝かされているのだと悟った。
ああ、死に損なってしまったか、と。
すぐさま指突っ込まれて「舌、噛むなよ」とディーノが笑った。
舌ごと指も食いちぎってやろうかと思ったが、生憎そこまでの力は入りそうに無かった。
「まだ死んでもらっちゃ困るんだ。聞きたいこともある」
「・・・ボスは」
「やっぱ一番にザンザスなんだ」
首をよじって指を吐き出した。包帯だらけで体が動かしにくい。
麻酔だろうか、力も上手く入らない。
「ずいぶんナマイキになったじゃねぇか、へなちょこぉ」
そう言って睨み返してやると、ディーノの傍らに控えていた髭面のおっさんがすっと前に出てきた。
懐に右手を入れている。牽制、ってわけか。立派なもんだ。
「お前さんも、自分の状況ってもんを理解したほうがいいな」
昔からこいつの世話役をしていたおっさんで、確か今は側近か。
「大空戦まで、あと半日以上ある」
おっさんはご丁寧に腕時計の文字盤を俺のほうに晒した。
「嫌でも連れてってやるさ。そのために、高い金払ったようなもんなんだからな」
毛嫌いしていたはずのマフィアの顔で、跳ね馬はにやりと笑った。
目を閉じてみたが、眠れそうにも無かった。
と、ここまで思い出して、俺はひとつの疑問にブチ当たる。
俺はどうしてまた病院にいるのか、という疑問。
大空戦を見に行ったはずではなかっただろうか。
夢?
だったらこんなに鮮明なはずは無い。
俺の目の前であいつは倒れた。血をたくさん流していた。傷だらけになって、そして・・・・そして?
あわてて起き上がろうとしたが、うまく力が入らない。
全身が弛緩して、重力がやたら重い。
まだあの麻酔が効いてやがるのか? いや、いくらなんでも効果が長すぎる。
第一あの時には動いたじゃないか。
もう一度、処置が施されたと、そういうことらしかった。
あいつの傍に行こうと、随分暴れた気がする。
血相変えたディーノの静止も聞かずに、俺はあいつの傍に行こうと・・・今も。
あの時は動いたのに、どうして今は言うことを聞かないのか。
たかだか薬くらいで。
無意識に噛み締めた奥歯で、さらに自分の体がいつもどおりでないのを再確認する。
歯軋りじゃなくて、歯と歯がぐらぐらとぶつかる音しかしない。
どうしてどいつもこいつも、俺の邪魔を・・・。
苛立ちで今にも叫びそうだって、まさにそのとき、声がした。
「なんだ、起きてやがったのか」
驚くよりも、何よりも先に。
声を聴いた瞬間、全身が緩んだ。
認識よりも反射が先立って、ああ、体が覚えているのだな、と。
声と重なって聞こえたはずのカーテンの引かれる音が、今になって脳に届く。
恐れにも似た気持ちでゆるゆると首を傾ければ、そこかしこに手当てを施されたザンザスが立っていた。
俺はなんだかいっぺんに安心してしまって、色んなところがぐずぐずと柔らかくなってゆくのを感じた。
ああ、よかった。生きてる。
「ザン・・俺、起き・・・」
「まだやめとけ」
「手、動か・・・」
「ゆっくり、動かしてみろ」
言われたとおりに、左手にゆっくりと力を込めた。
拍子抜けするほどあっさりと、腕は浮いた。
いきなり色んな筋肉や神経を使おうとしたのが、いけなかったらしい。
だから起き上がれなかったのか。
力を抜くと、左腕は小さな音を立ててシーツに落ちた。
音と速度と感触とで、思ったほど高く持ち上げられはしなかったのがわかった。
手を伸ばしたいと思ったが、今はまだ無理そうだった。
「おたがい、ぼろぼろだなぁ」
「はっ、てめぇよりゃマシだ。怪我人の癖にビチビチ暴れやがって」
「ビチビチってお゙ぉい、俺ぁ魚じゃねぇぞぉ」
鮫は魚類だったか? と思いかけたところで、あいつの顔が近づいてきた。
ザンザスは麻酔の所為で喋ってないときも微妙に開いたままの口が気に入らなかったらしく、
しかめっ面で「だらしねぇ」と小さくつぶやいてから俺にキスをした。
そんなことして閉じるわけでもあるめぇしと思ったが、キス自体は悪い気がしないのでおとなしく受け入れた。
唇は、二、三度触れただけで離れていった。
「なぁ、捨てさせてやろうか、その名前」
こいつはいつも唐突で、俺はすぐに反応を返せないようなときが間々ある。
そういうとき、短気なこいつはすぐに俺を殴ったりすんだけれど、
今目の前にある赤瞳は見たこともないような穏やかさで、凪いだ海のような、諦めるようなそういう表情を湛えていた。
「なまえ、を?」
「ああ」
「俺の?」
「ああ」
スペルビというのは生きるために汚いことなんでもやってた時代の綽名で、
スクアーロというのは俺に剣とこの世界を教えた男が俺を呼ぶときに使った名だ。
この世界の人間だけが俺を知っていて、つまりこの名前も。
それを捨てるってのは、つまり、この世界を。
「そ、れは・・・」
アンタは? と聞こうとしてやめた。
あんまりにも愚問過ぎた。
名前にもこの世界にもさして執着は無い。
剣を捨てるのはきっと難しいけれど、俺は基本的に忍耐強いんだ。
傍に居るのに邪魔なんだったら、剣でもなんでも捨ててやる。
どんなに穏やかな日常も甘んじて受け入れてやろう。
アンタがそこに居るっていうんなら。
だけど、違うんだろう?
この世界と綺麗さっぱり縁を切ろうと思ったら、あんたは足を洗うどころの騒ぎじゃない。
全身どっぷり浸かりきって、その中じゃないと呼吸も出来ないだろう?
「・・・・俺ぁまだアンタに感謝されるようなこと出来ちゃ無いぜ」
言い訳めいた俺の言葉に、ザンザスは困ったような笑い方をした。
この後ボスが失踪して鮫が失明すると言う超展開だった